どんなストーリーも連れていくよ
01 明日には運び出される荷に凭れ見あげていたね海の天辺

 丁寧に封をした段ボール箱に、瞳から剥がれたしずくが落下する。
 こんな景色を過去に見たことがあった。今と同じ、彼と暮らしている住処をあとにするときのことだ。記憶の中で焼き増しを繰り返してこびりついていたそのときの模様とまったく重なって寒気がする。──あの頃とは比べ物にならない喪失の感覚に。
 夜は部屋を満たして溢れてとめどなくオレの身体に打ち付けたゆたっている。海の近くで生まれ育っていればすこしは違っただろうか。滅ぶだけの仮定をまた重ねている。消えないとわかっていながら、染みのついた段ボールを擦った。
 デュオアイドルふたりで住むには少々手狭で、元デュオアイドルひとりで暮らすには虚しい広さが確保された部屋だった。解約はもう二週間後に迫っている。取捨選択ができる状態ではなかったので私物は片っ端からゴミ袋に詰め込んで口を縛り適当に処分した。それから長期滞在のホテルを自分で手配した。燃え殻のような生活がどこまで続いたって困る人間は誰もいない。オレも含めてだ。
 そんな中で捨てられなかったのは彼の荷物だけだった。
 そして、捨てられないのは彼と最後に話す口実になり得るからだった。
 あの人はもうここにいないのに未練がましく思考を巡らせている。もう一度だけ、オレの名前を呼ぶ声を聴く方法を。
 噛み癖がついてしまったせいで親指の爪がまた無惨さを増している。気付いて、唇から剥がす。唯一捨てられなかった自分のスマホを今すぐ叩き壊してほしい。あの人と繋がっている最後の糸を潰されるくらいだったら今すぐ殺してもらったほうがマシだと本気で信じているオレごと、叩き壊してほしい。
「……なんで」
 そんな瞬間に震えるから、やっぱり神様はいるんだなと思わされるのだ。携帯に表示された彼の名前に。性懲りもなく、幾度も。
 そして呆気なく手に取っている。こんなオレにも灯されてしまうたったひとつの慈悲深い光として。
「もしもし」
 スピーカーの向こうの静寂は誠実に深かった。紛れもなく彼と繋がっていると、だからオレは信じることができた。
「モモ」
「なに、……今更、何の用で」
「今、何してたの」
「ユキのこと考えてた」
 期待なんてしているわけがないのに言葉を吐き出すたびに新しい傷が喉につく。気を紛らわしたくて箱の縁を指の腹でなぞれば触れた通りに冷たい。痛くてつらくて助けてほしいくらいの現実味が心地良かった。
「ユキはなにしてたの。バンさんは今いないの?」
「買い物に出てる」
「そんなときになんでかけてきたの」
「携帯、変えるから。……多分、今日」
 なにも言えないことにはらわたが煮えくり返って唇を噛めばそのまま噛みちぎってしまいそうだ。だからゆるめた口から、その喉の奥から罵詈雑言でも吐き出せれば良かったのに、オレは数滴の新しい液体をまたこぼして頬を濡らしている。
「わかんないだろうけど」
「……うん」
「あんたにはわかんないだろうけど、嬉しいって、思っちゃうよ、オレは」
 また上書きされる。擦ったって消えないくせに放っておけば蒸発してしまう儚い染みが。
「嬉しいとか思わせんなよ、せめてそっちから連絡しないぐらいの堪え性見せろよ」
「モモにずっと謝りたかった」
 呪われるのも殺されるのもこの人が良かったのだ。反射のように口角が上がる。引き攣った唇から漏れたのは笑いだ。こんな風にしかもう幸福を抱きしめられない。一体いつからだっただろうか。思い出せない。でもこんな悲劇だって最初は、この夜の始まりのようになだらかで十分取り返しのつくものだったはずだ。はずなのに。
 一体いつになったら朝がくるんだろう。
「謝らなくていいよ」
「もっと、怒って。おまえは最後のときも」
「だって怒ってなんかない」
「なんで」
「ユキが好きだから」
 もう一度笑えるかと思ったのに漏れたのは嗚咽だ。格好がつかなくて情けない。
「今すぐ会いに来て」
「できない」
「うん」
「ごめん」
「……」
 いいよって言わなかったこと、一生覚えてて。せめてそのぐらいは祈らせて。
 渦巻く心臓の熱はますます脳を冷ます。深く息を吸うことさえできる。すべては過ぎ去ってしまったのだ。冬の入り口から声を投げられてもなお、オレは引き延ばされている残暑の中から出られない。
「もうすぐ帰ってくるかも、万」
「バンさんともこんな風に浮気してたんだ」
「泣かないで、モモ」
「大丈夫だよ。嬉し泣きじゃんか」
「モモ……」
「そっちから切って」
 荷物は持っていこうとひとりで決めた。呆気なく通話が切れたことを示す画面を眺めながら。長い間そうして直視しながら。