どんなストーリーも連れていくよ
03

姿を現した彼はキャップに髪を仕舞い込んでいて、しかし頸は晒さずストールで覆っていた。不服そうに尖らせた唇だってこの期に及べば素直に憎めそうですらあった。
「テラスって。まだそんな季節じゃなくない?」
「だからコーヒー頼んでおいてやったんだろ」
「もうぬるくなってる」
「別に長居するつもりないから文句言うな。十分で済む」
 さして興味もなさそうな眼差しが随分と熱を含んだ陽光を眩しそうに捉えて逸らして、また万理の方を向く。その視線を今まで許していた。許していたからここにいた。こいつのために、ここにいた。
「万から呼び出すなんて珍しいじゃない」
 その声から滲み出ている期待をはっきりと受け流す。自分の方に置いた飲み物をわざと甘ったるいカフェラテにしたのもそのためだった。ぬるぬると胸を埋めてしまう熱が含む棘をもう飲み込んでしまわないように。そうして違和感からもう目を逸らさないように。
「トップアイドル呼び出してコーヒーが飲みたかったの?」
「もう会わない」
 本当に、存在することすら想像していなかった銃口を口に突っ込まれたような表情を千はした。そのことに心底面食らってしまう。
 こんな関係が永遠に続くと、本気で信じていないとそんな反応はできない。
「……は?」
「おまえとは会わない。連絡も取らない。金輪際」
「また急に、何? たまに変な意地張るよね、おまえ」
「そう言うのじゃない」
 三月の香りはどこからともなく息苦しさを引き摺り出す。自分でさえ喉に触れてし皮膚を掻いてしまうような居心地の悪さを、果たして千はどう感じているのだろうか。考えたくなんてないのによく分かる。だって目の前の男は、明らかに小僧を隠した平穏を必死に貼り付けている。
「百くんから連絡もらったよ」
「モモから、万に?」
「『浮気すんならバレないようにしてって、なんで教えてあげといてくれなかったの』だって」
「……」
「……説明、要る?」
 カフェラテは舌に載せるたび甘ったるくて重たくて飲めたものじゃない。こんなものに今までよく付き合ってきたなと自嘲する。千を守るために生きているような、千の大事な子を傷付けてまで。
「二兎を追う者は、って言うじゃん」
「……」
「良かったな、どっちも失わなくて」
 ここは正気を見誤れるようなバーでも、酔っ払いばかりが蠢く夜の街でも、ましてや互いの自宅のベットの上でもない。あまりにも正常に歯車が回っている真昼間の下で、万理たちには噛み殺さないといけないものが多すぎる。
「万を失くしたら、駄目になる、今度こそ」
「ならなかっただろ」
「また会えると信じられてたからだ」
「いつまでも、とか、存在しないって。おまえも本当はわかってたんだろ?」
 こいつが到底わかってなかっただろうことを知っていながらそう吹っかけた。甘いカフェラテを飲み下す。その程度で実際おさめてしまえるくらいの情なのだ、いつでも。
「会えなくていいからここにいて」
「そんな約束はできないな」
「捨てないで、……本当には、置いていかないで……」
 聴いていたかった。本当はずっと。認めたくないくらいには強く。だからそれに抗えたことなんて多分一度だってなかったのだ。あのときは直接すがる声を聴かなかったからいなくなれたのだ。
「捨ててなんかないだろ」
 中身をとうとう飲み干す。ざらざらとした雑な甘みが喉を滑る中で捉えた千の表情が、本当はずっと手に入れたいと望んでいた彼の姿そのものだったから、きっとすぐに忘れられるだろうとも思えた。
「大丈夫だよ。おまえには百くんがいるんだから」
 つけていた薄手の手袋を外して携帯を取り出す。千の視線が一点に釘付けになっているのをはっきりと感じ取りながら。
「正気なの」
「失礼だぞ。身を固めようとはずっと思ってたよ、俺だって」
「……嘘でしょう」
 そればっかりだなと万理は笑って、片手はすでにラビチャを開いている。
「本当でも嘘でも、もう関係ないよ」
「万」
「これが俺の答えなんだから」
 気が変わらないうちに千の連絡先を消去していく。仕事用に公開しているメールアプリの設定まで丹念に。液晶の感触がいやに親指にやさしい。冷たくなじまず縛りつけるような薬指の輪にまだ慣れないからだろうか。
「思い出になんてできるの」
「そりゃできるだろ」
「そうじゃなくて。……一回でも、万はできたことがあったの」
「ああ、楽しかったよ、千といられて。千もそうだろ?」
「こんな終わり方さえしなかったらね」
 帰ると告げて立ち上がって、一歩出て鼻先にぶつかったそれに空を見上げる。
「……雨か」
 陽の光は相も変わらず二人を照らす。肌寒さの残る気温の中でテラスで過ごしているのも自分たちだけで、狐の嫁入りにしては強まる雨足に仕方なくパラソルの下に身を戻す。
 そうして何も言わずにしばらく、千と万理は気まぐれな天気に踏み荒らされる春の中で立ち尽くしていた。
ないない
02

 しばらくまともに帰ることもなくなるのだろうと思うと、はじめに足が向いたのはその地だった。
「久しぶり! なんか怪我したって聞いたけど大丈夫かよ?」
 電話をかけたのは高校を卒業して以来だったのに、いつかのように彼は快く応じた。余計な靄の含まれていない明朗な軽さに救われかける。親しい人間の沈痛な面持ちをこの数週間で嫌というほど見たからだろう。その筆頭には、もちろんあいつの顔が浮かんでいる。これからはもう何処で何をしているのか知る由もないあいつが。
「大丈夫大丈夫。悪いんだけど、今地元に帰ってて。一晩だけでも泊めてくれたら超ありがたいんだけど……やっぱり難しいよな?」
「今日? 別に良いけど、場所覚えてる?」
「あー……ごめん」
「迎えに行くわ! 俺もお前と会いたかったんだよ」
 夢ある話に飢えててさあ、春から社会人だぜ、ヤバくない? と冗談めかした声に同じ種類の笑いで返す。乾いてしまっていないだろうかとわずかに案じた。どこまでも海と砂浜が広がっているような見慣れた景色の中で、虚しくなるほど小さなことを。
 夢も希望も未来も成功も余すところなく押し流されてしまった自分は、それら全てを掴みかけていた頃の表情をできるのだろうか。

 寝慣れない寝具の中で降り立った砂浜と西陽の眩しさを思い出していた。ワンルームの部屋には時計の音がやたら大きく響いている。寝返りを打って神経を澄ませば友人の寝息もベットの上からよく聞こえた。
 不意に目が覚めてしまった闇の中で、柄にもなく撮ってしまった写真を手持ち無沙汰に眺め返す。空いた穴の内側の皮膚はまだ肉を削がれたことにも気付かず、風だけを通してただ呆然としている。衝撃がほどこした麻痺が切れて痛み出すのはきっとこれからだった。
 あまりにもしつこすぎて着拒をかけたあいつの番号をリストから呼び出していた。深夜三時二十五分の文字列を眺めながら、なんとなく──解除してみる。
 五分もしないうちに震え出すから笑ってしまった。嘲笑のような響きを孕んだその声が向いた先は着信元のこいつではない。
 低く強い振動を漏らすそれにしばし耳を傾けていた。千、と表示されている端末の光をそうして見つめていた。秒針の音も寝息も、自分を現実と繋げていたものが途端に薄れる。
 万、と俺を呼ぶ声が、だから鮮明に耳に蘇る。今はアパートにまだいるのだろうか。まだ受け止め切れていない頃だろうか。確かめる方法なら今この瞬間も手のひらの中で煌々と光っている。
 鼓動がやたら大きく響く。それは捨てると決めて実際に捨てて、それでもそれがどういうことなのか本当には理解していない戸惑いの音に他なくて、追い詰められたような気分で電源を落とす。
 数十秒ぶりの静寂が心にひどく優しかった。
 もう一度電源をつける勇気なんて出るわけがなかった。捨てようと、目を閉じてまた決めている。この部屋を出た頃にもう一度。朝陽がそうして頭の先からつま先の先まで照らす頃に、すべてをここに置き去りにしよう。
ないない
01

 夕食を喉に流しても味はしなかったし、気分を変えるために淹れた熱いコーヒーを口に含んでもなお気分は良くならなかった。長しに垂れ流れていく黒い液体はシンクを軋ませる。国を越えてから永遠に同じ回転を繰り返す秒針と、同じ音で。
 暖房が壊れているのだろうか。暖まらない部屋の暖まらないベットの上に身体を投げ出す。昼間千から入っていた連絡には気付いていた。三つ届いたメッセージのうちの確認していない二つを気にしながら、既読はつけないままで夜を越した。どこにいるの、とだけ表示された最後の文面がいちばん上で佇んでいる。こいつを含めた二人以外の連絡先はすべて削除されたラビチャのトークルームの中で。
 ベットの傍の窓から広がる暗闇の、そのはるか果ての曇天から雪が降り落ちているのが見える。これからは静寂だけが積もっていく部屋で、瞼を閉じれば繰り返すのはどうしても過去の断片的なシーンばかりになる。あの日振り返ったときに広がっていた空っぽの部屋と地続きだと、心底感じた空港の騒がしさ。千の絶望が滴ってくるような留守電は手荷物検査を終えてから聴いた。身体が浮遊すると同時に鮮明な青空に包まれてしまえば、痛みごと剥離していく感覚を懐かしく思えた。やはりこれがベターだった。たとえベストではないとしても、結局は誰に非難をされたって、実際これですべてが丸く収まりうまくいく話だった。
 瞼を開けたのは枕元に放っていたスマホから着信音が響いたからだった。相手は千じゃない。だとしたら相手はあとひとりの方だった。罵詈雑言だろうかと内容の想像が過ぎって、疲れているんだなと自覚する。日本では朝を迎えた頃のはずだ。何かあったんだろうかと素直な疑問に変換して通話ボタンを押す。無視しても良かったその連絡に応じたのも、この部屋が静かすぎるせいだった。
『バンさんッ』
 鼓膜を裂くような悲鳴に似た声はやけに切羽詰まっていた。今度は純粋にどうしたのと反射で尋ねている。
『ユキからなにか、言われてましたか』
「千と連絡は取ってないよ。なに、まだ仲直りできてないの、君ら」
『違うよ。違う、……ねえ、死んだよ、ユキ』
「……は?」
『死んじゃった……ねえこれって、悪い夢かな、……バンさん……』
「死んだって、なんで、そんな、嘘だろ?」
『首吊ってたんだよ、オレが、オレが見つけた』
 沈黙の間に彼の感情の堰は切れ断末魔のような泣き声が垂れ流しになる。受け止める余地なんてあるはずがなかったから携帯から耳を剥がす。そのまま通話も切ってしまったというのに、号泣と事実が蜃気楼のように脳内で揺らめき続ける。
 涙が出なかったのはその時自分を貫いたのが単なる衝撃だけじゃなかったからだった。
 どこにいるの
 メッセージは今日の14時35分に届いたものだった。日本ならちょうど夜ごろか。そんな計算で気を紛らわせながらトークを開く。罪悪感がようやく滲み出したように震える指で。
 万がいないと意味がないってわからなかった
 選べなくてごめん
 どこにいるの
「嘘だろ……」
 応えていたら。生易しい考えが軽々しく頭をもたげる。馬鹿馬鹿しい。だってそれはこういう結果を内包した上で自分が選んだもののはずだ。
 Webサイトの検索窓に彼の名前を打ち込む。ニュースはまだ公表されていないのか映画の告知が発表された三日前の見出しが最新のものだった。天を仰ぐ。あまりにも距離があるせいだろうか。生気を失った頬にこの手で触れていないからだろうか。どうにも現実味を感じられない旧友の死を前にして感じていたことは、自分でも流石に認めたくないようなものだった。
 連絡ありがとう。しばらくは大変だろうけど百くんも身体を大事にして。とだけメッセージを送る。そして再び手持ち無沙汰に戻ってしまう。
 どこにいるの
 また文面を眺めている。いつどこで、どんな気持ちで打ち込んだんだろうか。そんなことさえ直接あいつの口から聞かないと俺にはわからないのだ。手に取るように理解し合えているようでそのくせ、彼が自分に向けた感情の大きさはいつもこんな形で自覚していたような気がする。──最期まで、そのままだった。
「ここにいるだろ、俺は、いつでも……」
 あの時とさして変わらない覚悟だった。それでも五年間俺がいなくたって十分すぎるくらい立派にやってこれたのだからこうすればまた正解にできるのだろうと。こんなことになるなんて思うはずがなかった。愛してくれる相方にも後輩にもこの上ないほど恵まれて、仕事も申し分ないほど順調で、何より彼が愛する音楽を手放さなくていい環境で、こんなことになるなんて。
 せっかく俺がいなくても生きていけるようになったのに最後がこれなんてあんまりだろうと、嘆くことで見ないふりをしていた。
 崩れた呂律で首吊りロープの作り方をこぼしながら深酒した夜を思い返す。いつだってここにいるよ。俺はずっとここにいた。
 おまえを失えば意味をなくしてしまうような世界に、俺もまた身を浸していたんだよ。わかんなかったんだなと鼻で笑う。天国でも地獄でも再会できないことを当然の報いとして確信しながら、性懲りもなく甘ったるく期待もしている。千もきっとそうだったんだろうと、自分にはわかってしまうからだった。

ないない