03 冬空を点滅しつつ飛行機は北へ(そう、もっと冷たく燃える) あとは最後の欠片のような陽が地平線の端に縋り付くように残っていただけだった。 「今度行くんだよ、撮影で。相当南の方だから暑いか……お土産何がいいか考えておいて」 「へえ、いいな。仕事だけど楽しんで」 うんと頷いた声はすぐに消えたのに千の視線が不自然に残る。妙な熱を孕んだままで。 ここは水平線が眺められる小綺麗なカフェで、近くにある空港までの道のりを確かめるがてら指定した場所だった。 高揚も落胆も特にない。今更終わりの気配に不安を抱けるような自分ではない。千はきっとなにかを悟っている。残りの珈琲も陽の欠片も消えていくことに焦燥している。でも、だからといって俺たちが尽くせる手はない。どうしたって珈琲が再びカップを満たすことはないし沈む陽を止めることもできない。 最初からそれは決まっていたことだった。 「万」 巨大な機体が空を横切って飛んでいく。酷い轟音と共に、北へと向かって。眺めながら最後の一口を飲もうとカップを持ち上げた手を、千に掴まれる。 「幸せだよ。この上なくね。それを失わないために、僕はもう、間違えたくないと思ってる」 「いきなりなんだよ。……うーん、向こうでは何が有名なんだろうな。ああ、うちの子たちにもお土産のリクエスト聞いておいていい?」 「もう僕と会うつもりないくせに? 平気な面をしてそんなことを抜かすのか」 「どうしたんだよ」 強く腕を握りしめられている。その彼の指先が白く色を変えて震えている。飛行機はまた旋回を始めているらしい。飛び立つ瞬間をそうして待っている。千の瞳はどうやら今にも泣き出しそうに潤んでいる。目の前の人間の表情さえよく見えないくらい明るさは落ちているのにテラスの照明は一向に点かない。 「あのときと、同じ顔をしないで」 「会うつもりがないなんて誰も言ってないだろ。次の予定入れるか? それで気が済むなら」 「時間の問題なんでしょう。このままじゃ駄目だとお前も思ってる、それなら僕を巻き込んで。置き去りにするなよ」 百くんは、と口を開く。その名前に力はゆるみやるせなく手が離れ、澱んだ熱は空気に溶ける。発熱はいつだって儚く、胸に届くより皮膚から剥がれる方が早い。 「百くんはどうするんだよ」 「僕らは……きっと、もう無理だよ」 「無理って」 「無理だし、大丈夫。でも、万はそうじゃないでしょう」 「どういう意味」 「ひとりでどこかに行かないで」 何も失くしたくないというのは紛れもなく彼の深い本心だ。俺だって理解を放棄しているわけでも悪意があるわけでもない。ただ拾おうとしているだけだ。きっと望ましいはずの彼らのこれからにつながる方法を。 「全部お前の勝手な思い過ごしだよ」 「もしそれが嘘なら」 「嘘じゃないって」 風の温度は低くとも穏やかだ。熱を冷ましてそうして固めるのにあまりにもちょうどいい。 「だからいい加減ちゃんと百くんを選んでやれ」 「本当に言ってるの」 「当たり前だろ」 「お前が何を考えてるのか、わからない……」 軽く触れただけで砕けそうなその声を聴きながら最後の一口を飲み干した。陽はもういつの間にかすっかり暮れていた。そしてテラスの照明が一斉に灯って、俺たちに満ちていた闇はおかげで完全に拭い去られる。 2025/06/11(Wed)
あとは最後の欠片のような陽が地平線の端に縋り付くように残っていただけだった。
「今度行くんだよ、撮影で。相当南の方だから暑いか……お土産何がいいか考えておいて」
「へえ、いいな。仕事だけど楽しんで」
うんと頷いた声はすぐに消えたのに千の視線が不自然に残る。妙な熱を孕んだままで。
ここは水平線が眺められる小綺麗なカフェで、近くにある空港までの道のりを確かめるがてら指定した場所だった。
高揚も落胆も特にない。今更終わりの気配に不安を抱けるような自分ではない。千はきっとなにかを悟っている。残りの珈琲も陽の欠片も消えていくことに焦燥している。でも、だからといって俺たちが尽くせる手はない。どうしたって珈琲が再びカップを満たすことはないし沈む陽を止めることもできない。
最初からそれは決まっていたことだった。
「万」
巨大な機体が空を横切って飛んでいく。酷い轟音と共に、北へと向かって。眺めながら最後の一口を飲もうとカップを持ち上げた手を、千に掴まれる。
「幸せだよ。この上なくね。それを失わないために、僕はもう、間違えたくないと思ってる」
「いきなりなんだよ。……うーん、向こうでは何が有名なんだろうな。ああ、うちの子たちにもお土産のリクエスト聞いておいていい?」
「もう僕と会うつもりないくせに? 平気な面をしてそんなことを抜かすのか」
「どうしたんだよ」
強く腕を握りしめられている。その彼の指先が白く色を変えて震えている。飛行機はまた旋回を始めているらしい。飛び立つ瞬間をそうして待っている。千の瞳はどうやら今にも泣き出しそうに潤んでいる。目の前の人間の表情さえよく見えないくらい明るさは落ちているのにテラスの照明は一向に点かない。
「あのときと、同じ顔をしないで」
「会うつもりがないなんて誰も言ってないだろ。次の予定入れるか? それで気が済むなら」
「時間の問題なんでしょう。このままじゃ駄目だとお前も思ってる、それなら僕を巻き込んで。置き去りにするなよ」
百くんは、と口を開く。その名前に力はゆるみやるせなく手が離れ、澱んだ熱は空気に溶ける。発熱はいつだって儚く、胸に届くより皮膚から剥がれる方が早い。
「百くんはどうするんだよ」
「僕らは……きっと、もう無理だよ」
「無理って」
「無理だし、大丈夫。でも、万はそうじゃないでしょう」
「どういう意味」
「ひとりでどこかに行かないで」
何も失くしたくないというのは紛れもなく彼の深い本心だ。俺だって理解を放棄しているわけでも悪意があるわけでもない。ただ拾おうとしているだけだ。きっと望ましいはずの彼らのこれからにつながる方法を。
「全部お前の勝手な思い過ごしだよ」
「もしそれが嘘なら」
「嘘じゃないって」
風の温度は低くとも穏やかだ。熱を冷ましてそうして固めるのにあまりにもちょうどいい。
「だからいい加減ちゃんと百くんを選んでやれ」
「本当に言ってるの」
「当たり前だろ」
「お前が何を考えてるのか、わからない……」
軽く触れただけで砕けそうなその声を聴きながら最後の一口を飲み干した。陽はもういつの間にかすっかり暮れていた。そしてテラスの照明が一斉に灯って、俺たちに満ちていた闇はおかげで完全に拭い去られる。