どんなストーリーも連れていくよ

 それでも始まったことは終わっていくし、明けない夜が都合よく訪れることはとうとうなかった。
「荷物、そんだけ?」
「ロッカーに預けてある。追い出されたら戻ってホテルに泊まるつもりだったし」
「……あっそ」
 オレと数時間前までセックスしていた元恋人の態度は目につくほどにはしおらしい。しかしそういう態度を取りながらも背中を向けて海を越え彼の想い人の元へ帰っていく。
 そんな眉の下がり方は知らなかった。でももう何十年も同じ表情をしていたみたいに馴染んでいる。オレといたときには浮かべる必要なんて微塵もなかった表情だった。
「こっちも結構寒いな……」
「そうだね。風邪ひきそう」
 初冬の空気が肺に冷たい。ドアを開ければきっともっと冷たい。ユキが昨日口にした国の土地なら、もはや比べようもないくらいの極寒が空の果てまで覆っているのだろう。この人、寒いの苦手なんじゃなかったっけ。いつもオレのコートのポケットに手突っ込んできてなかったっけ。
 なのにそうして暖を取ったくらいじゃ慰めにもならない、そんな冷え切った場所にこの人は嬉々として帰っていくらしい。
「じゃあ……」
 ふざけんなよと、突きつければその一言で済む。頬を張ればその一発で何もかもが終わる。申し訳なさそうに背中を丸めて、硬い響きでオレの名前を口にして謝罪の言葉を取ってつけて、帰るべき場所に帰ったあとは二度とオレの元にやってくることもなくなるのだろう。
 そのどちらも、とうとう今の今まで行動に移せなかった。だからユキは躊躇うように「また来てもいい?」とオレに問いかける。
「まだ柔らかいでしょ。一回ぐらいできんじゃない?」
 相も変わらず薄い肩だった。壁に荒く押し付けただけでヒビが入りそうだ。いつかのセックスの記憶が蘇る。お互い堪えきれなくなって帰るなり玄関先で抜きあって、どんな一瞬にも紛れもなく愛が滲んでいた。
「モモ、……間に合わなくなるから」
 あの頃たしかにオレを満たしていたものが、隅々まで肌を撫でても見つからない。この人の中に意味を探すこと自体が虚しくて惨めで無意味だって、わかっているからってどうしてやめられるだろうか。
「一回だけだよ。すぐ済む。いいじゃん、だって昨日何回したの」
「あ、……モモ、ねえ」
「オレもユキも、犬みたいにさあ……ねえ、気持ちよかったよね? 本当はここでもっかいしたかったんだろ、あんたも」
「だめ、……本当に、駄目」
 オレを押し返す腕の力に躊躇いながらも強い抵抗が混じる。触れた唇も即座に強張る。薄ら寒かった。この人に触れていてそんなことを感じたのは初めてだった。
「口でしてあげるから」
「……は?」
「それで許して」
 呆然としているオレに、ユキは跪いてスウェットのゴムにもう手をかけている。
 そんな言い草どこで覚えてきたのなんて問いただす資格ももうない。わざわざ思い知らせないでと言いたくてもこの人には自覚がない。ひらく唇の奥の暗闇がおぞましい。はずだったのに、迎え入れられた口の中がようやく温かくて心地いい。それにはっきりと慰められてまた、どうしようもないこの人への罵倒の嵐が渦巻いていく。昨日も何度も何度も吹き荒れて、その度乱暴にこの人に打ち付けて、それでも気持ちよさそうにユキは善がってた。オレのユキはもうどこにもうないことをそうしてゆっくりと思い知った。
 従順に執り行われていくフェラチオは快楽を嗜むいとまもなく、なかなか上手く膨らまないそれを相手にしてもなおユキは健気にしゃぶりついている。
「よく知ってると思うけど、あんたのことが好きだったよ」
 窄められた頬のかたちを確かめるように撫でる。安心のかけらのようなものをそこからぽつぽつと拾い上げる。
「でも、今はもうそんなことなかったんだ。オレの力じゃどうしようもないことわりで事が終わっていくのも、ありがたいことに初めてじゃなかったから」
 意識は醒めていくばかりなのにユキはリアクションを避けたいのか、舌を出して静かに目の前の性器を舐めている。
「起きちゃったことは、しょうがないかって」
 そんなことしながらさ、昨日の夜に帰りたいと今にも言い出しそうな顔をしないでよ。
「なのになんで」
 オレより先に、泣いたりしないで。
 髪を引っ掴む。咳き込み呻く声が泡立つ。そうしたくてそうしたわけじゃなかった。昨日だってずっとそうだった。オレたちを宥める手段が痛みしかないから、もうそれしかないからだ。それを求めてこの人も海を越えてきたのだろう。よく分かる。よく知ってる。罵られて貶されてよくのうのうと生きてられるなと首を絞められて、そんな風にかつてはオレも赦されたかった。
 涙を流すしか能のなくなった瞳を見下ろしながら、射精までの時間はたった一瞬がさらに切り刻まれた程度の時間だったようにオレは感じた。ユキはどうだった、って尋ねたくなった。白濁の飛び散った唇から何が返ってくるのか、オレは無性に確かめたかった。
 スウェットを上げてしゃがみ込む。愛しくなんてなかった。それどころか無様だと、心からそう感じる。姑息な彼らを軽蔑していた。昨日までは、たしかにしていた。
「ごめん」
「そればっかりだよ、ユキは昨日から」
「謝りにきたから」
「謝るくらいなら最初っからしないでって、よく言ってたよね、喧嘩したとき」
 口にあてがおうとした袖口を掴んで止める。「これから帰るんでしょ」とオレの袖で丁寧に拭ってやる。精液も涙も、まとめて一緒に。
「思い出話だってオレはしたかったよ。一年会ってないんだよ、オレたち」
「怒ってたよ、モモ」
「そりゃ怒るのは怒るでしょ。無傷で帰れるの感謝してほしいぐらいだし」
「ありがとう?」
「……ん」
「ねえ。さっきの、上手にできてた?」
 咄嗟に言葉に詰まる。鋭い痛みが懐かしい。とっくに鈍くなって、感じ取れなくなっているものだと思っていた。
「上手かったよ。気持ちよかった」
「そう。よかった」
「帰んないで」
 越えてはいけない一線だとわかって踏んだはずなのにやっぱり脳が沸騰するみたいに熱くなる。涙があっという間に瞳から剥がれて、ユキがそれを見つめている。この人にだけは見られたくなくて、でも見ていてくれないと二度と掬われることもない。
「嘘。帰って。もういいよ、じゃあね、バイバイ」
「モモ」
「いいから。ほら、立って。早くどっか行ってってば」
「元気でいて」
「そっちは野垂れ死んだらいいんじゃない、ふたりで」
「モモがそうしてって言うなら」
「言うわけないだろッ……勝手にしろよ、マジで」
 背中を軽く押せば朝日の向こうへ彼は押し出されて、そしてまた暗闇と静寂が手元に帰ってくる。この上なく安心していた。涙が久しぶりになかなか止まらなくて、それが億劫だっただけだった。