どんなストーリーも連れていくよ

 モモが僕を殴るようになった。
 長袖の季節だったのがせめてもの救いだっただろうか。服の上から大きな絆創膏の貼られた腕をさする。傷が生まれてもすぐに瘡蓋になることを僕はもう知っていた。だったらもう拒む理由も逃げる理由もここにはなかった。
「遅かったね。上がり一緒だったのに」
「色々寄っててね。なにか食べる? もう食べた? ……僕も一緒に飲もうかな」
「好きにすれば。来てくれなんてオレは頼んでないんだし」
 いまは歌えない喉にまたアルコールが流れ落ちていく。五回、立て続けに溜飲を繰り返した喉仏を僕は見つめる。
 空間は彼の心中を示すように散らかっていた。床が見える部分はところどころしかない。わざわざ約束もなくたってモモの家に帰るようになったのは、これらを片付けるためでもあった。それはいつかの季節に、モモがそうして僕の心を埋めてくれたみたいに。
 おまえを失いたくないよ。それを伝えることがこの状況の慰めになることを僕は信じていたかった。
「そろそろ嫌んなってくるでしょ」
「そんなことないよ。モモの面倒を見れるのは、僕もうれしい」
「そのまんまにしといて。そっちの方が落ち着くからそうしてるんだし」
 キッチンまで侵食していたモノの山に、しゃがみこんでひとつひとつを崩した。貰った差し入れが煩雑に積み上げられているらしい。背後にモモの気配を感じる。缶の中の炭酸が弾ける音がする。背中が粟立っているのを悟られないように、つとめて深く呼吸した。
「これ、冷蔵っぽいな……」
 大層なその菓子折りの箱に『五周年おめでとうございます』と祝福の言葉が巻き付けられていたのは手に取ってから気付いたことだった。
 刺すような沈黙がはっきりと僕らに流れる。背後から降るモモの視線を強く感じていて、僕は暗澹の予感ですでに息が止まっていた。
「そのまんまにしといて、つったじゃん」
 背中に強い衝撃を受けて、されるがままに目の前の山へ身体が飛ぶ。
 心は慣れたようでいて、身体はなかなか適応しない。身の危険を正確に察知しているからだろう。防衛機能としては正しい。──この男は、その気になれば僕のことを容易に殺せる。
 それでも彼は僕にとってモモだった。この世に二人といない、僕の相方のモモだった。
「イライラしてんのわかんない? なんでわざわざ気に障ることするかなあ」
「モモ……」
 何度か蹴られつつ彼の脚に仰向けにされる。そうして晒されたお腹の上に拳がめり込んで、それはきっとまた新しい内出血の痕をつくるのだろう。断続するその殴打のひとつひとつがたしかな彼の爆発だった。痛くて苦しくて手放しそうな意識の中で、もっと苦しそうにしているモモの姿を僕を見ていた。
 モモはいつだって泣いていたから。
「ほっといてくれよ。オレがこの部屋で野垂れ死んだってもう関係ないだろ、あんたに」
 頭が霞んでくるたび、ひとつひとつの痛みにいちいち耳を澄ませた。これがモモについている傷の姿なら、僕はそれを甘んじて受け入れていたかった。
「情なんてかけるなよ。捨てるなら潔く捨ててくれよ」
 いつかの日に僕がまとめたゴミ袋から引っ掴んだ中身をモモは僕に向かって投げつける。割れてしまったCDディスク。缶ビールの残骸。破り散らかされた雑誌。焼酎の瓶。宝物もガラクタも、一緒くたになって僕にぶつかって地に落ちて、そうしてふたたび息絶える。
「捨てたり、しないよ」
「捨てるじゃんか。あんた、汚いものは汚いって、この部屋のもの、勝手に!」
 瓶をふたたび掴んだ彼は激昂のままにそれを思い切りシンクに叩きつけた。けたたましく割れる音に僕の記憶の蓋は開いてしまう。切先の鋭い瓶の破片をモモが手放すことはなかったから、余計に。
 身体は勝手に震える。息は勝手に浅くなる。モモが怖いんじゃなくて、モモが向けるそれが怖いだけなのに、これじゃまるで怯えているみたいだった。
「……それ、下げて」
「色々思い出しちゃうもんね。あんなに必死なユキさん、もう見ることないんだろうなあ」
 そんな怖がんないで。とモモが囁く。横たわった僕の太ももに彼の体重を感じて、閉じていた目を開ける。僕の上に馬乗りになったモモは、いやにやさしい瞳をしている。こんなときでも彼の温度は高い。そよ風のように僕の心を微かに慰める。
「殺したりはしないから」
 服をめくりあげたってそこに健康的な肌の色を探すのはもう難しい。血の気がますます失せていくのは、皮膚の下で出血している紫の脇腹にあてがわれる破片を、目を逸らすこともできずに見つめていたからだった。
「ちょっと傷をつけるだけだから、だから、大丈夫だよ」
 すうと走っていくいくつかの鮮烈な赤い線を、モモは愛しむような瞳で、僕はいっそ気絶したい気分で、それぞれ眺めていた。
「こんなので死なないんだ。病院に行かなきゃなんない傷にもならない」
「……あ、あ……やめて、あッ……」
「バンさんみたいには、ならないよ」
「……モモ、おねがい、だから」
 滲んだ血液をモモは指で傷口に擦り付ける。鈍い痛みと鋭い痛みが気味悪く混ざり合って、反射でモモの腕を掴んでいた。そのときには多分、僕も泣いていた。
 凍りついたようにモモの赤い掌が僕の頬を包む。かすかにぬるついた感触が肌の上を滑る。
「ごめん、ごめんなさい、ユキ、許して」
「……許してるよ。……ずっと、許してる」
「なんで、こんな、ユキ、ねえ、痛かったでしょ?」
「まあ、……そうね」
「ごめんね。ごめんね……オレ、もうしない、もうしないよ」
「うん。もうしないで」
 縋り付くように抱きすくめられる。もう片頬の頬を、今度はモモの涙が濡らす。打ちのめされたように彼はしばらく嗚咽を漏らした。
「ユキさんにいちばん酷いことがしたかった」
 そしてそんな懺悔を漏らす。
「オレのこと忘れてほしくなくて、消せなくなった傷みたいに、オレもここに刻まれてたくて」
 つられてだんだんと浅くなっていく呼吸を僕は聴いている。
「用済みになったからって、いなかったことになんかしてほしくなくて……、ねえ、そんなこと、しないよね?」
 ごめんなさい、ごめんなさいと彼は泣く。もうしないからここにいて。本当は捨てられたくなんかない。そのすべてに僕は頷いていた。流れた血はいつか乾いて、傷はかならず瘡蓋になる。なるんだよ、モモ。でも、おまえはきっとまだ、それを知らないんだろうね。

 散らかした部分を片付けるだけでいつも精一杯だった。鎮痛剤を飲んで血も洗い流して傷の手当てを一通り済ませた僕は、キッチンで眠り込んでいるモモを避けて、瓶の破片も震えながら紙にくるんできちんと捨てた。気分が悪くて何度か吐いたが、最後は僕もモモの隣で横になることができた。──明日は、この多忙の中で奇跡的に確保されたオフだった。
 束の間の安寧を僕らは抱き合って貪る。愛しい寝顔を眺めて、鈍い痛みも抱き締めて、僕はゆっくりと意識を手放す。





 ユキを殴っているのはオレらしい。
 ここ数週間どこか憔悴している様子を見せる彼の、その原因はオレが歌えなくなったからだって静かに、それでも隅々まで行き渡るように囁かれているのは知っていたけれど、それは違う。
 本当の原因はそこにあるわけではない、……らしい。
「覚えてない?」
 なぜか目を覚ましたここはベッドじゃなくてキッチンで、差し入れでもらったものを適当に放っていた山の中でオレたちはさっきまで眠り込んでいた。覚えてない、と答えると、ユキは真偽を確かめるようにオレの頬を撫でて、──それから、微笑んだ。
「よかった」
「よかったって……何が」
「思い出さなくていいよ」
 おはよう、モモ。柔らかく抱き締められてますます頭が混乱した。悪夢の気配だけが粘り強く存在を示すように、脳の奥が鈍く痛んでいた。
 お風呂に入ると言った彼はしかし自力で立ち上がることはできなかった。鎮痛剤を頼まれたからオレは何を言っていいのかもわからずに、物言わぬ幼児のように、言われたことをこなすことしかできない。訊くべきこともかけるべき言葉もこの部屋の様相みたいに溢れかえっていて、どこから手をつけていいのかわからない。オレが慄いている間にユキは白い錠剤を飲み下して、もう大丈夫だよとまた笑う。
 一体こんな状況のどこが、どんな風に、『大丈夫』なの。
 訊こうとして、また喉が閉じた。歌をうたおうとするときのように。だから諦めて、オレも一緒に入るよと言った。彼は拒む気配を出したけれど、問答無用でオレはユキの肩を支える。

 際限なく組まれている華やかな収録と、それぞれの現場で受ける腫れ物に触れるような扱い。掠れた息しか吐けなくなった喉とともに、すべての息遣いが一ミリもずれずに流れ去っていくオレの歌声。──それらの現実が皮肉にも、頭の中から綺麗に飛んだ。あまりにも酷い状態のその身体を目の当たりにしたときに。
 湯気が浴室を包みはじめる。足先にお湯をかけて、「熱くない?」と尋ねる。大丈夫と頷いた彼を確かめて、比較的痣の少ない膝から下を、ぬるめに設定したお湯で濡らした。
 肩から上が歪に美しいユキは、そしてこんなユキにしたオレ自身は、いつか元通りに戻れるのか、それともそんな日は来ないのか、そういうことを考える。向き合うためなんかじゃない、目の前から目を逸らすために。
「絆創膏、剥がす?」
「肘のところは剥がしていいよ。そこ以外はまだ」
「……脇腹、どうしたの」
「こんなに大きい絆創膏、初めて見るでしょ。買ったときはびっくりしたんだよ、僕も」
 柄にもなくそうやって茶化してみせた彼は、それ以上の深掘りを拒絶していた。最近のオレたちに流れるのはこんな沈黙ばかりだった。オレがそれに文句を言えるはずもなかった。何を言う資格も、きっと今のオレにはない。
「もうここに来ないで」
「……」
「オレはひとりでも大丈夫だから。合鍵も一旦返してもらう。それで解決するじゃん」
「……嫌だ」
「嫌だもなにもないよ。こんなことになってんのに。そうだよ、最初からこうすればよかったんだよ……」
 太ももにボディソープを乗せたらわずかにユキの表情が歪む。ごめんと慌てて謝って、湯桶に溜めていたお湯で恐る恐る流す。
「僕がいなきゃモモはご飯もろくに食べない。身体を壊してる場合じゃないの、わかってるでしょう」
「そんな身体で説得するつもりなの」
 ごめん、ユキに怒りたいわけじゃなくて、とオレは、なぜかオレが泣きたいような気持ちで言い訳をする。傷ついているのは誰が見てもユキの方なのに、冷や汗をかきながらもオレはこのひとに縋りつきたくなっている。
「オレから逃げて」
 握りしめたシャワーホースが力の抜けた手のひらから滑り落ちる。けたたましい音のせいでその後の静寂が際立つ。弱い水流はオレとユキの足裏を浸しつづけた。
「逃げたりしないよ」
「それなら、今すぐこのホースでオレの首絞めてよ」
「……」
「……オレがユキに、いつかそうしちゃう前にさ」
 笑おうとして涙が出てくる。こらえきれずにうずくまったオレの頭にユキの手が乗る。
「そんなこと、モモはしないでしょう」
 根拠のない信頼の声がこんなにも痛い。その言葉を真に受けて簡単に信じることができたらどんなによかっただろう。そんなオレでいられたら、どれだけ救われただろう。
 暖色と湯気とぬるま湯で構成されているこの空間のどこにも、光を見つけることができない。それなのにユキはまた笑っている。
「僕はいなくならないよ」
「……」
「おまえが歌えるようになるまで、ちゃんとここにいるから」
 良かれと思ってこのひとはそんなことを言う。オレへの純粋な優しさでそう慰める。他でもない、オレを安心させるために。
 だから、余計に焦燥する。
「一緒に、歌えなくなろうよ」
 夢の記憶は夢なんかじゃなくて、なにもかも現実だったってこと、ずっと受け止めきれなくてごめんね。全部、オレがやったことだよね。──そうだよね。
「うたえなく、なってよ」
 あなたの首はこんなに柔らかくて、痕をつけるのはこんなにも簡単だ。怯えているユキの表情を初めて目の当たりにした。きっと彼自身の意思に反して、激しく震えだす身体も。
「モモ……モモ?」
 この世のどん底を舐めるようなその感覚は心底不快で、それでも、それは幸福と呼ぶべきものだった。