夏が途切れて秋が雪崩れ込んで、煙のように冬が香る頃だった。 「だっておまえ、もう見つけられるだろ、俺のこと」 そのアパートはまだ新築の匂いがした。段ボール箱もそこかしこに積まれている。生活の気配が染み込む前の清潔さで部屋は包まれていた。 呆気に取られながら千は、万理のことばを鼓膜の表皮で受け止める。どれだけ咀嚼したってちっとも脳には入ってこない。 「いいか。これで最後だ。僕の前から、黙って、いなくなるな」 「ただ引っ越しただけだろ。ムキになりすぎ」 「詭弁にも程がある。だってわざとだろ、こんなの」 万理は飄々と肩をすくめてみせる。それきり会話を断ち切るように段ボールの解体作業に戻った。 主を失った万理の元の住処を前に、立ち尽くすしかできなかったときの感覚が鮮明に蘇る。凍えた空気に長い時間つつかれた肺がひび割れてとうとう息ができなくなったことも。つい一昨日の話だ。──うっかり電話をかけた相手は今の相方だった。 『バンさん、ちょっと前に引っ越すってオレは教えてもらってたけど……ユキ、聞いてなかった?』 千を案じるその声がなければ、大袈裟でなく、きっと一晩中血の気を抜かれたままだった。 結局は、『大丈夫? 迎えに行こうか?』と今は千よりも多忙な時期の彼に余計な心労をかけてしまったのだが。 「戻りたくなくて避けるのも、執着してるってことなんじゃないの」 動きを止めないその背中に投げかける。窓の外は秋晴れの空が気持ちよく広がっていた。鰯雲が点々と青に模様をつけていて、それでもももう、入道雲は膨らまない。 「好きにすればいい。一生囚われてれば」 吐き捨てた体をなんとか繕った。万理にとってかつてのあの記憶が、どうやら傷でもなかったらしいことが。 だから手首を掴まれたとき何が起こったのか咄嗟に理解できなかった。 「執着なんかしてないよ。おまえとじゃなくてもいいんだから」 触れた唇の意味はきっとなかった。事実だけが生まれて、そしてやがて消すつもりなんだろう、万理自身の手で。それでもそんなことはどうだってよかった。 だってこのままひとりで冬を越えるのは、あまりにも心細かったから。 「誰でもいいなら僕でもいいだろ」 諦めたようなため息が降る。どれだけ惨めだって、深まっていく口付けを手放すわけがなかった。フローリングの上に、されるがままに押し倒されるとき、微笑んでさえいた。別にこれ以上何が欲しいわけでもなかった。だって既にこの世のすべてを手に入れたような気分だったから。 2025/06/14(Sat)
「だっておまえ、もう見つけられるだろ、俺のこと」
そのアパートはまだ新築の匂いがした。段ボール箱もそこかしこに積まれている。生活の気配が染み込む前の清潔さで部屋は包まれていた。
呆気に取られながら千は、万理のことばを鼓膜の表皮で受け止める。どれだけ咀嚼したってちっとも脳には入ってこない。
「いいか。これで最後だ。僕の前から、黙って、いなくなるな」
「ただ引っ越しただけだろ。ムキになりすぎ」
「詭弁にも程がある。だってわざとだろ、こんなの」
万理は飄々と肩をすくめてみせる。それきり会話を断ち切るように段ボールの解体作業に戻った。
主を失った万理の元の住処を前に、立ち尽くすしかできなかったときの感覚が鮮明に蘇る。凍えた空気に長い時間つつかれた肺がひび割れてとうとう息ができなくなったことも。つい一昨日の話だ。──うっかり電話をかけた相手は今の相方だった。
『バンさん、ちょっと前に引っ越すってオレは教えてもらってたけど……ユキ、聞いてなかった?』
千を案じるその声がなければ、大袈裟でなく、きっと一晩中血の気を抜かれたままだった。
結局は、『大丈夫? 迎えに行こうか?』と今は千よりも多忙な時期の彼に余計な心労をかけてしまったのだが。
「戻りたくなくて避けるのも、執着してるってことなんじゃないの」
動きを止めないその背中に投げかける。窓の外は秋晴れの空が気持ちよく広がっていた。鰯雲が点々と青に模様をつけていて、それでもももう、入道雲は膨らまない。
「好きにすればいい。一生囚われてれば」
吐き捨てた体をなんとか繕った。万理にとってかつてのあの記憶が、どうやら傷でもなかったらしいことが。
だから手首を掴まれたとき何が起こったのか咄嗟に理解できなかった。
「執着なんかしてないよ。おまえとじゃなくてもいいんだから」
触れた唇の意味はきっとなかった。事実だけが生まれて、そしてやがて消すつもりなんだろう、万理自身の手で。それでもそんなことはどうだってよかった。
だってこのままひとりで冬を越えるのは、あまりにも心細かったから。
「誰でもいいなら僕でもいいだろ」
諦めたようなため息が降る。どれだけ惨めだって、深まっていく口付けを手放すわけがなかった。フローリングの上に、されるがままに押し倒されるとき、微笑んでさえいた。別にこれ以上何が欲しいわけでもなかった。だって既にこの世のすべてを手に入れたような気分だったから。