01 つづき 夕食を喉に流しても味はしなかったし、気分を変えるために淹れた熱いコーヒーを口に含んでもなお気分は良くならなかった。長しに垂れ流れていく黒い液体はシンクを軋ませる。国を越えてから永遠に同じ回転を繰り返す秒針と、同じ音で。 暖房が壊れているのだろうか。暖まらない部屋の暖まらないベットの上に身体を投げ出す。昼間千から入っていた連絡には気付いていた。三つ届いたメッセージのうちの確認していない二つを気にしながら、既読はつけないままで夜を越した。どこにいるの、とだけ表示された最後の文面がいちばん上で佇んでいる。こいつを含めた二人以外の連絡先はすべて削除されたラビチャのトークルームの中で。 ベットの傍の窓から広がる暗闇の、そのはるか果ての曇天から雪が降り落ちているのが見える。これからは静寂だけが積もっていく部屋で、瞼を閉じれば繰り返すのはどうしても過去の断片的なシーンばかりになる。あの日振り返ったときに広がっていた空っぽの部屋と地続きだと、心底感じた空港の騒がしさ。千の絶望が滴ってくるような留守電は手荷物検査を終えてから聴いた。身体が浮遊すると同時に鮮明な青空に包まれてしまえば、痛みごと剥離していく感覚を懐かしく思えた。やはりこれがベターだった。たとえベストではないとしても、結局は誰に非難をされたって、実際これですべてが丸く収まりうまくいく話だった。 瞼を開けたのは枕元に放っていたスマホから着信音が響いたからだった。相手は千じゃない。だとしたら相手はあとひとりの方だった。罵詈雑言だろうかと内容の想像が過ぎって、疲れているんだなと自覚する。日本では朝を迎えた頃のはずだ。何かあったんだろうかと素直な疑問に変換して通話ボタンを押す。無視しても良かったその連絡に応じたのも、この部屋が静かすぎるせいだった。 『バンさんッ』 鼓膜を裂くような悲鳴に似た声はやけに切羽詰まっていた。今度は純粋にどうしたのと反射で尋ねている。 『ユキからなにか、言われてましたか』 「千と連絡は取ってないよ。なに、まだ仲直りできてないの、君ら」 『違うよ。違う、……ねえ、死んだよ、ユキ』 「……は?」 『死んじゃった……ねえこれって、悪い夢かな、……バンさん……』 「死んだって、なんで、そんな、嘘だろ?」 『首吊ってたんだよ、オレが、オレが見つけた』 沈黙の間に彼の感情の堰は切れ断末魔のような泣き声が垂れ流しになる。受け止める余地なんてあるはずがなかったから携帯から耳を剥がす。そのまま通話も切ってしまったというのに、号泣と事実が蜃気楼のように脳内で揺らめき続ける。 涙が出なかったのはその時自分を貫いたのが単なる衝撃だけじゃなかったからだった。 どこにいるの メッセージは今日の14時35分に届いたものだった。日本ならちょうど夜ごろか。そんな計算で気を紛らわせながらトークを開く。罪悪感がようやく滲み出したように震える指で。 万がいないと意味がないってわからなかった 選べなくてごめん どこにいるの 「嘘だろ……」 応えていたら。生易しい考えが軽々しく頭をもたげる。馬鹿馬鹿しい。だってそれはこういう結果を内包した上で自分が選んだもののはずだ。 Webサイトの検索窓に彼の名前を打ち込む。ニュースはまだ公表されていないのか映画の告知が発表された三日前の見出しが最新のものだった。天を仰ぐ。あまりにも距離があるせいだろうか。生気を失った頬にこの手で触れていないからだろうか。どうにも現実味を感じられない旧友の死を前にして感じていたことは、自分でも流石に認めたくないようなものだった。 連絡ありがとう。しばらくは大変だろうけど百くんも身体を大事にして。とだけメッセージを送る。そして再び手持ち無沙汰に戻ってしまう。 どこにいるの また文面を眺めている。いつどこで、どんな気持ちで打ち込んだんだろうか。そんなことさえ直接あいつの口から聞かないと俺にはわからないのだ。手に取るように理解し合えているようでそのくせ、彼が自分に向けた感情の大きさはいつもこんな形で自覚していたような気がする。──最期まで、そのままだった。 「ここにいるだろ、俺は、いつでも……」 あの時とさして変わらない覚悟だった。それでも五年間俺がいなくたって十分すぎるくらい立派にやってこれたのだからこうすればまた正解にできるのだろうと。こんなことになるなんて思うはずがなかった。愛してくれる相方にも後輩にもこの上ないほど恵まれて、仕事も申し分ないほど順調で、何より彼が愛する音楽を手放さなくていい環境で、こんなことになるなんて。 せっかく俺がいなくても生きていけるようになったのに最後がこれなんてあんまりだろうと、嘆くことで見ないふりをしていた。 崩れた呂律で首吊りロープの作り方をこぼしながら深酒した夜を思い返す。いつだってここにいるよ。俺はずっとここにいた。 おまえを失えば意味をなくしてしまうような世界に、俺もまた身を浸していたんだよ。わかんなかったんだなと鼻で笑う。天国でも地獄でも再会できないことを当然の報いとして確信しながら、性懲りもなく甘ったるく期待もしている。千もきっとそうだったんだろうと、自分にはわかってしまうからだった。 ないない バンユキ 2025/11/01(Sat)
夕食を喉に流しても味はしなかったし、気分を変えるために淹れた熱いコーヒーを口に含んでもなお気分は良くならなかった。長しに垂れ流れていく黒い液体はシンクを軋ませる。国を越えてから永遠に同じ回転を繰り返す秒針と、同じ音で。
暖房が壊れているのだろうか。暖まらない部屋の暖まらないベットの上に身体を投げ出す。昼間千から入っていた連絡には気付いていた。三つ届いたメッセージのうちの確認していない二つを気にしながら、既読はつけないままで夜を越した。どこにいるの、とだけ表示された最後の文面がいちばん上で佇んでいる。こいつを含めた二人以外の連絡先はすべて削除されたラビチャのトークルームの中で。
ベットの傍の窓から広がる暗闇の、そのはるか果ての曇天から雪が降り落ちているのが見える。これからは静寂だけが積もっていく部屋で、瞼を閉じれば繰り返すのはどうしても過去の断片的なシーンばかりになる。あの日振り返ったときに広がっていた空っぽの部屋と地続きだと、心底感じた空港の騒がしさ。千の絶望が滴ってくるような留守電は手荷物検査を終えてから聴いた。身体が浮遊すると同時に鮮明な青空に包まれてしまえば、痛みごと剥離していく感覚を懐かしく思えた。やはりこれがベターだった。たとえベストではないとしても、結局は誰に非難をされたって、実際これですべてが丸く収まりうまくいく話だった。
瞼を開けたのは枕元に放っていたスマホから着信音が響いたからだった。相手は千じゃない。だとしたら相手はあとひとりの方だった。罵詈雑言だろうかと内容の想像が過ぎって、疲れているんだなと自覚する。日本では朝を迎えた頃のはずだ。何かあったんだろうかと素直な疑問に変換して通話ボタンを押す。無視しても良かったその連絡に応じたのも、この部屋が静かすぎるせいだった。
『バンさんッ』
鼓膜を裂くような悲鳴に似た声はやけに切羽詰まっていた。今度は純粋にどうしたのと反射で尋ねている。
『ユキからなにか、言われてましたか』
「千と連絡は取ってないよ。なに、まだ仲直りできてないの、君ら」
『違うよ。違う、……ねえ、死んだよ、ユキ』
「……は?」
『死んじゃった……ねえこれって、悪い夢かな、……バンさん……』
「死んだって、なんで、そんな、嘘だろ?」
『首吊ってたんだよ、オレが、オレが見つけた』
沈黙の間に彼の感情の堰は切れ断末魔のような泣き声が垂れ流しになる。受け止める余地なんてあるはずがなかったから携帯から耳を剥がす。そのまま通話も切ってしまったというのに、号泣と事実が蜃気楼のように脳内で揺らめき続ける。
涙が出なかったのはその時自分を貫いたのが単なる衝撃だけじゃなかったからだった。
どこにいるの
メッセージは今日の14時35分に届いたものだった。日本ならちょうど夜ごろか。そんな計算で気を紛らわせながらトークを開く。罪悪感がようやく滲み出したように震える指で。
万がいないと意味がないってわからなかった
選べなくてごめん
どこにいるの
「嘘だろ……」
応えていたら。生易しい考えが軽々しく頭をもたげる。馬鹿馬鹿しい。だってそれはこういう結果を内包した上で自分が選んだもののはずだ。
Webサイトの検索窓に彼の名前を打ち込む。ニュースはまだ公表されていないのか映画の告知が発表された三日前の見出しが最新のものだった。天を仰ぐ。あまりにも距離があるせいだろうか。生気を失った頬にこの手で触れていないからだろうか。どうにも現実味を感じられない旧友の死を前にして感じていたことは、自分でも流石に認めたくないようなものだった。
連絡ありがとう。しばらくは大変だろうけど百くんも身体を大事にして。とだけメッセージを送る。そして再び手持ち無沙汰に戻ってしまう。
どこにいるの
また文面を眺めている。いつどこで、どんな気持ちで打ち込んだんだろうか。そんなことさえ直接あいつの口から聞かないと俺にはわからないのだ。手に取るように理解し合えているようでそのくせ、彼が自分に向けた感情の大きさはいつもこんな形で自覚していたような気がする。──最期まで、そのままだった。
「ここにいるだろ、俺は、いつでも……」
あの時とさして変わらない覚悟だった。それでも五年間俺がいなくたって十分すぎるくらい立派にやってこれたのだからこうすればまた正解にできるのだろうと。こんなことになるなんて思うはずがなかった。愛してくれる相方にも後輩にもこの上ないほど恵まれて、仕事も申し分ないほど順調で、何より彼が愛する音楽を手放さなくていい環境で、こんなことになるなんて。
せっかく俺がいなくても生きていけるようになったのに最後がこれなんてあんまりだろうと、嘆くことで見ないふりをしていた。
崩れた呂律で首吊りロープの作り方をこぼしながら深酒した夜を思い返す。いつだってここにいるよ。俺はずっとここにいた。
おまえを失えば意味をなくしてしまうような世界に、俺もまた身を浸していたんだよ。わかんなかったんだなと鼻で笑う。天国でも地獄でも再会できないことを当然の報いとして確信しながら、性懲りもなく甘ったるく期待もしている。千もきっとそうだったんだろうと、自分にはわかってしまうからだった。
ないない