09
「嫌じゃなかったです!!」
まさか怒声のように聞こえてしまっただろうか。義勇さんの相変わらず感情の読めない静かな瞳に冷や汗が垂れ落ちる。誤解を撤回しないといけないとものすごい速度で脳が回転を始める。匂いを嗅ぐなんて機転が効くわけもなく。
「俺も嫌ではなかった」
そんな返事を貰ったせいだろうか、原因はそれしかないのだけれども。己の血がだらりと鼻から垂れ落ちていたことに気付いたのは、俺の顔を拭った義勇さんの手のひらが紅く汚れているのを目の当たりにしてからだった。
そして信じられないことに俺と義勇さんは、それっきりであった。
厠を出た義勇さんとの出会い頭の事故とはいえ、正面からしっかりと接吻を交わした仲であり、かつお互いに「嫌ではなかった」と意思表示まで済ませているのに。──しかし思い返せばたしかにはっきりとした好意は俺も示していない。そうかそうかとひとりごちた。拒まれるかもしれないと過らないわけではない。しかし嫌ではないと彼ははっきりとそう言ったのだ。それだけで血管が再度弾ける心地がする。蒸し返せない。そのためには改めて鍛練を重ねる必要がある。瓢箪を割るのとは真逆だ、自らの内が弾けないようにするための──
「炭治郎。乗り気でないなら帰ってもいい」
「えっ。えっ!? 義勇さん、俺のどこのなにを見て乗り気でないと……!?」
「柱稽古の最中でもある。疲労がたまっているんだろう。思い至らず悪かった、兄弟子の頼みだから律儀なお前は断らなかったのだな。次からは遠慮せず疲れているときは」
「違います! 俺は元気です! ほら! ほら!」
「……」
「義勇さんと鮭大根を食べるの、約束してからずっとずっと楽しみで……」
でも別の約束が俺はほしかったから、そっちに気をとられていたから、つい。
言いたいことが言えないのも、聞きたいことが聞けないのも肺がはち切れそうに苦しい。言えるようになるまでの距離もわからないんだから、永遠に水面に向かって腕をかき続けているようだ。いつまで経っても日の光を拝めることないままに。
「そうか。俺も楽しみにしていた」
何の気もなしに目を細める貴方が唯一の酸素だ。
百年ぶりの息継ぎを隅々まで身体に行き渡らせれば自然と笑顔が湧き上がる。
「でも、義勇さんが楽しみにしてくれてたのが、俺は一番うれしいです」
一息で頬に熱が上がる。駄目だ、弾けてしまえば駄目になる。唇を噛みしめる。こらえる。鼻血ぐらい我慢できなきゃこの人の懐には入れない。しかし、入れない、としても、入るしかないのだ。俺はもうすでに。
「義勇さんっ……」
「店が見えてきた。もうじきに着く」
それは話は食べてるときににしろとか後にしろとかそういうことだろうか。匂いを吸おうとして、なのにもう肺はぱんぱんに膨らんでいて、吐き出そうとしてうまくいかない。こんなにも呼吸は難儀な技だっただろうか。それとも
「恋の最中だからでしょうか」
「……なんだ」
「っ! いえ、いえ……」
引っ込みはつけられそうでつけられない。雀がすうと低空飛行で俺たちの間をすり抜けて、思い出した一人の友はこんなところを見たら白目を剝くだろうなと想像する。突きつけられるであろう罵詈雑言までありありと。思い出し笑いのように笑んでいた。
「なかったことにするはずの話であればすみません。……義勇さん。俺たちは一度、その、義勇さんが厠を出たときに……」
「ああ。あのことか。気にしていたのか」
「はい、俺は、割と」
「もしや初めてだったのか。悪いことをした。しかし安心しろ」
「えっ」
「俺も初めてだった」
ぐっ。危ない。危ないぞこの人。
すんでのところで出血を防ぐ。事実の処理はいったん後に回して、呼吸をとにかく優先させる。
「それは俺も、もっ、申し訳ございませんでした……」
「いい。だから不問にしようということだ」
「不問、とは、……なかったことに、ということですか?」
「そうだ。俺に会うたび真っ青になったり真っ赤になったりする必要はない。気にしなくていい、ということだ」
「なかったことに、できますか、……義勇さんは」
なにが言いたい、と瞳が尋ねている。いい加減観念しないといけない。頭の中の善逸がもう俺の頸を締め上げそうなあたりでようやく決意の息を吸う。
「もう一度、義勇さんとの口吸いの約束がほしくて!」
「……ばっ」
「俺は! 今日までずっと! そのことだけを……!」
「馬鹿野郎! 声が大きい!!」
大通りだぞ、と吐き捨てる苛立った義勇さんの声を聞き届ける。ここ数日喉に詰まっていた本音を吐き出してせっかく呼吸を思い出したというのに、俺の鼻も口も義勇さんの手のひらが覆ってしまった。そのことにもうろうとしている内に路地の先の路地に引きずり込まれてようやく解放される。相当の力を出して走ったらしい、もうろうとした頭に土埃の残り香がよく回る。
「義勇さん、すみません」
「……」
「でも、やっとすっきりしました。ご迷惑なら断ってください。いえ、このまま帰ることになっても、仕方のないことですよね……。すみません。でも、やっぱり我慢できなかったので」
「時と場所を考えろ」
「義勇さんがそれを……?」
「なんだと」
「いえ! すみません、気が緩んで!」
腕を組みながらも俺を置いて立ち去ったりはしないしできない人なのだろう。人通りも盛んだったあんな通りであんなことを叫ぶ奴がいたら放って帰るのが関の山だろう。なのに口を塞いでわざわざこんな路地まで連れ込んで。どういうつもりなのか問い質したいし、投げるべき問いは投げたのだからあとは答えてほしいという気持ちがない交ぜだ。
「もう一度、口吸いの約束をと言ったか」
「はっ、はい!!」
「よくもまあ……」
「すみませんっ」
腰から折って直角のお辞儀をした。渾身の詫びだ。数秒後にはきびすを返すつもりでいた。当然の結果で、うまくいく想像の方がうまくできなかった。
「いつにするんだ」
人はあまりに想定外のことが起きると言葉の意味を理解できなくなる。戦闘中も会話をうまく処理できないのはよくある話だ。その感覚と、目の前の彼との対話が、一致する。
「いつ、とは……」
「約束、だろう。日を決めねば」
「え。それは」
「決まっていないなら俺が決めようか」
「ちょ~っと、待ってもらってもいいですか……!!」
ないない
「嫌じゃなかったです!!」
まさか怒声のように聞こえてしまっただろうか。義勇さんの相変わらず感情の読めない静かな瞳に冷や汗が垂れ落ちる。誤解を撤回しないといけないとものすごい速度で脳が回転を始める。匂いを嗅ぐなんて機転が効くわけもなく。
「俺も嫌ではなかった」
そんな返事を貰ったせいだろうか、原因はそれしかないのだけれども。己の血がだらりと鼻から垂れ落ちていたことに気付いたのは、俺の顔を拭った義勇さんの手のひらが紅く汚れているのを目の当たりにしてからだった。
そして信じられないことに俺と義勇さんは、それっきりであった。
厠を出た義勇さんとの出会い頭の事故とはいえ、正面からしっかりと接吻を交わした仲であり、かつお互いに「嫌ではなかった」と意思表示まで済ませているのに。──しかし思い返せばたしかにはっきりとした好意は俺も示していない。そうかそうかとひとりごちた。拒まれるかもしれないと過らないわけではない。しかし嫌ではないと彼ははっきりとそう言ったのだ。それだけで血管が再度弾ける心地がする。蒸し返せない。そのためには改めて鍛練を重ねる必要がある。瓢箪を割るのとは真逆だ、自らの内が弾けないようにするための──
「炭治郎。乗り気でないなら帰ってもいい」
「えっ。えっ!? 義勇さん、俺のどこのなにを見て乗り気でないと……!?」
「柱稽古の最中でもある。疲労がたまっているんだろう。思い至らず悪かった、兄弟子の頼みだから律儀なお前は断らなかったのだな。次からは遠慮せず疲れているときは」
「違います! 俺は元気です! ほら! ほら!」
「……」
「義勇さんと鮭大根を食べるの、約束してからずっとずっと楽しみで……」
でも別の約束が俺はほしかったから、そっちに気をとられていたから、つい。
言いたいことが言えないのも、聞きたいことが聞けないのも肺がはち切れそうに苦しい。言えるようになるまでの距離もわからないんだから、永遠に水面に向かって腕をかき続けているようだ。いつまで経っても日の光を拝めることないままに。
「そうか。俺も楽しみにしていた」
何の気もなしに目を細める貴方が唯一の酸素だ。
百年ぶりの息継ぎを隅々まで身体に行き渡らせれば自然と笑顔が湧き上がる。
「でも、義勇さんが楽しみにしてくれてたのが、俺は一番うれしいです」
一息で頬に熱が上がる。駄目だ、弾けてしまえば駄目になる。唇を噛みしめる。こらえる。鼻血ぐらい我慢できなきゃこの人の懐には入れない。しかし、入れない、としても、入るしかないのだ。俺はもうすでに。
「義勇さんっ……」
「店が見えてきた。もうじきに着く」
それは話は食べてるときににしろとか後にしろとかそういうことだろうか。匂いを吸おうとして、なのにもう肺はぱんぱんに膨らんでいて、吐き出そうとしてうまくいかない。こんなにも呼吸は難儀な技だっただろうか。それとも
「恋の最中だからでしょうか」
「……なんだ」
「っ! いえ、いえ……」
引っ込みはつけられそうでつけられない。雀がすうと低空飛行で俺たちの間をすり抜けて、思い出した一人の友はこんなところを見たら白目を剝くだろうなと想像する。突きつけられるであろう罵詈雑言までありありと。思い出し笑いのように笑んでいた。
「なかったことにするはずの話であればすみません。……義勇さん。俺たちは一度、その、義勇さんが厠を出たときに……」
「ああ。あのことか。気にしていたのか」
「はい、俺は、割と」
「もしや初めてだったのか。悪いことをした。しかし安心しろ」
「えっ」
「俺も初めてだった」
ぐっ。危ない。危ないぞこの人。
すんでのところで出血を防ぐ。事実の処理はいったん後に回して、呼吸をとにかく優先させる。
「それは俺も、もっ、申し訳ございませんでした……」
「いい。だから不問にしようということだ」
「不問、とは、……なかったことに、ということですか?」
「そうだ。俺に会うたび真っ青になったり真っ赤になったりする必要はない。気にしなくていい、ということだ」
「なかったことに、できますか、……義勇さんは」
なにが言いたい、と瞳が尋ねている。いい加減観念しないといけない。頭の中の善逸がもう俺の頸を締め上げそうなあたりでようやく決意の息を吸う。
「もう一度、義勇さんとの口吸いの約束がほしくて!」
「……ばっ」
「俺は! 今日までずっと! そのことだけを……!」
「馬鹿野郎! 声が大きい!!」
大通りだぞ、と吐き捨てる苛立った義勇さんの声を聞き届ける。ここ数日喉に詰まっていた本音を吐き出してせっかく呼吸を思い出したというのに、俺の鼻も口も義勇さんの手のひらが覆ってしまった。そのことにもうろうとしている内に路地の先の路地に引きずり込まれてようやく解放される。相当の力を出して走ったらしい、もうろうとした頭に土埃の残り香がよく回る。
「義勇さん、すみません」
「……」
「でも、やっとすっきりしました。ご迷惑なら断ってください。いえ、このまま帰ることになっても、仕方のないことですよね……。すみません。でも、やっぱり我慢できなかったので」
「時と場所を考えろ」
「義勇さんがそれを……?」
「なんだと」
「いえ! すみません、気が緩んで!」
腕を組みながらも俺を置いて立ち去ったりはしないしできない人なのだろう。人通りも盛んだったあんな通りであんなことを叫ぶ奴がいたら放って帰るのが関の山だろう。なのに口を塞いでわざわざこんな路地まで連れ込んで。どういうつもりなのか問い質したいし、投げるべき問いは投げたのだからあとは答えてほしいという気持ちがない交ぜだ。
「もう一度、口吸いの約束をと言ったか」
「はっ、はい!!」
「よくもまあ……」
「すみませんっ」
腰から折って直角のお辞儀をした。渾身の詫びだ。数秒後にはきびすを返すつもりでいた。当然の結果で、うまくいく想像の方がうまくできなかった。
「いつにするんだ」
人はあまりに想定外のことが起きると言葉の意味を理解できなくなる。戦闘中も会話をうまく処理できないのはよくある話だ。その感覚と、目の前の彼との対話が、一致する。
「いつ、とは……」
「約束、だろう。日を決めねば」
「え。それは」
「決まっていないなら俺が決めようか」
「ちょ~っと、待ってもらってもいいですか……!!」
ないない
08
義勇さん、聞いてますか? あ、いや……。聞いてるならいいんです。あのですね。
という彼の声とともに、俺の背中を彼の指がなぞるかすかで乾いた音が居間をたゆたっている。
「義勇さん義勇さん。ずっと聞きたかったことがあるんです俺」
なんだと尋ねる。背中をなぞられ飽きて、天井の板模様をぼんやり見上げ眺めていた。そんな時間がそういえば増えた。日々は改めてしるすまでもなく平和な安寧が続いている。そうしてずっと薄く永く引き延ばされている。いわゆる余生と呼べる生活が。
「なぜ帰ってほしくないという匂いをさせているんですか?」
その頃に比べればずいぶんと頭の回転も遅くなってしまったのだろう。とっさに返事が出ない。
任務の時以外の義勇さんはずっとそんな風でしたよとこの弟弟子は笑うだろうか。そんなやりとりの想像が容易くなるくらいには、炭治郎との時を重ねているような気もする。
「あ。そっか、背中を触られるのがお嫌でしたか? すみません、すこし反るのが楽しくて」
「別に嫌ではない。……くすぐったい」
「そうですか」
「そうだ」
「義勇さん、俺も帰りたくないです」
否定するのを忘れていたのを肯定と取られたらしい。しかし違うというわけでもないのになぜ否定しないといけないと思っていたのか──そのあたりでややこしくなり、思考を止めた。
「そうか」
「そうです。だから夕餉の準備をと思って魚を焼いたんです。もうすこしかかります」
「そのようだな」
「食べ終えたら茶を淹れましょう。それまで俺は帰りません。夜は遅くなりますが……」
「なら、また泊まっていけば良い」
「……ふふ、はい。そうします」
寄り合って自然にまどろんで目が覚めたらお互いにお互いがいるような。そうしてまた同じことを幾日も幾日も繰り返していくような。夢のように遠かったはずのそんな現実が本当は欲しかったと気付いたのは手に入ってからだった。
「もうじきに冬がきますね」
夕陽が傾くのがはやくなったのはそのせいだったか。ひとり静かに合点を済ませたせいで相づちを打つのを忘れていた。炭治郎は朗らかに笑い声をあげてみせて、考え事ですか、と尋ねた。
「別に、くだらないことだ」
落ちかけている夕陽が放つ同じ色を炭治郎も目に写している。一瞬盗み見て、再度その光に視線をやる。
「俺は何度でもここを訪れますよ」
「……。もう、いつでも、好きに来ればいい。事前に報せをもらえればもてなしもする」
「いえ、そうではなくて。あなたが呼んでいなくても、たとえ拒んでいてもという意味です」
相変わらず身体同士の距離が近いというより、もはや小指同士は触れている状態である。しかしはかりなおす方がわざとらしく、触れたままにさせておく。
「覚えてますか? あのうんと広い屋敷の中で、あなたひとりを追いかけ回して……」
「あれには参った」
「あはは、すみません。ねえ、あのときね、俺はあなたに」
無言で続きを促す。炭治郎の見透かした瞳がおかしそうに細められる。
「義勇さんはひとりじゃないですよって言いにきたんです」
ああ懐かしいですね、義勇さんは懐かしくないですか? とあの頃たしかに子どもだったはずの彼はさらに身を寄せて二の腕に触れる。
「忘れはしないだろうな」
「俺もです! あの、それで、もちろん、義勇さんには柱の皆さんとか、あなたを尊敬してる隊士とか……もちろん鱗滝さんも、もちろんそうなんですけど」
「ああ」
「……なにより、誰より、俺がいますって、言いにきたんです」
そうか、と告げる。すっきりしたように息を吐く少年の気配をもう肩で聴くことができる。
「いま、義勇さんに同じことを言いたくなった。それで思い出しました」
「そうか」
「さみしくなったら、いつでも教えてください。厠にだって湯浴みにだって何日でもついて回って義勇さんに知ってもらいます」
夕陽の最後の光がとうとう溶けかけている。何をとは聞けなかったし、それはもういいとも言いそびれて、それでもふたりにはそれで十分だった。
わかっているつもりだと弟弟子に手渡した答えと同時に、微笑は自然に浮かんでいたのだろうか。炭治郎は自分の表情を目一杯受け取ったのち、なぜか涙を瞳の上でめいっぱい膨らませて、しかしその矜恃に従って落とすことなく口元をゆがめるようにして不器用に笑んだ。
「あ! 魚が焦げてしまったかも」
「別に構わない。お前のぶんはまた焼けばいい」
「そんなあ。美味しい魚、食べてほしいです、義勇さんに」
ないない
義勇さん、聞いてますか? あ、いや……。聞いてるならいいんです。あのですね。
という彼の声とともに、俺の背中を彼の指がなぞるかすかで乾いた音が居間をたゆたっている。
「義勇さん義勇さん。ずっと聞きたかったことがあるんです俺」
なんだと尋ねる。背中をなぞられ飽きて、天井の板模様をぼんやり見上げ眺めていた。そんな時間がそういえば増えた。日々は改めてしるすまでもなく平和な安寧が続いている。そうしてずっと薄く永く引き延ばされている。いわゆる余生と呼べる生活が。
「なぜ帰ってほしくないという匂いをさせているんですか?」
その頃に比べればずいぶんと頭の回転も遅くなってしまったのだろう。とっさに返事が出ない。
任務の時以外の義勇さんはずっとそんな風でしたよとこの弟弟子は笑うだろうか。そんなやりとりの想像が容易くなるくらいには、炭治郎との時を重ねているような気もする。
「あ。そっか、背中を触られるのがお嫌でしたか? すみません、すこし反るのが楽しくて」
「別に嫌ではない。……くすぐったい」
「そうですか」
「そうだ」
「義勇さん、俺も帰りたくないです」
否定するのを忘れていたのを肯定と取られたらしい。しかし違うというわけでもないのになぜ否定しないといけないと思っていたのか──そのあたりでややこしくなり、思考を止めた。
「そうか」
「そうです。だから夕餉の準備をと思って魚を焼いたんです。もうすこしかかります」
「そのようだな」
「食べ終えたら茶を淹れましょう。それまで俺は帰りません。夜は遅くなりますが……」
「なら、また泊まっていけば良い」
「……ふふ、はい。そうします」
寄り合って自然にまどろんで目が覚めたらお互いにお互いがいるような。そうしてまた同じことを幾日も幾日も繰り返していくような。夢のように遠かったはずのそんな現実が本当は欲しかったと気付いたのは手に入ってからだった。
「もうじきに冬がきますね」
夕陽が傾くのがはやくなったのはそのせいだったか。ひとり静かに合点を済ませたせいで相づちを打つのを忘れていた。炭治郎は朗らかに笑い声をあげてみせて、考え事ですか、と尋ねた。
「別に、くだらないことだ」
落ちかけている夕陽が放つ同じ色を炭治郎も目に写している。一瞬盗み見て、再度その光に視線をやる。
「俺は何度でもここを訪れますよ」
「……。もう、いつでも、好きに来ればいい。事前に報せをもらえればもてなしもする」
「いえ、そうではなくて。あなたが呼んでいなくても、たとえ拒んでいてもという意味です」
相変わらず身体同士の距離が近いというより、もはや小指同士は触れている状態である。しかしはかりなおす方がわざとらしく、触れたままにさせておく。
「覚えてますか? あのうんと広い屋敷の中で、あなたひとりを追いかけ回して……」
「あれには参った」
「あはは、すみません。ねえ、あのときね、俺はあなたに」
無言で続きを促す。炭治郎の見透かした瞳がおかしそうに細められる。
「義勇さんはひとりじゃないですよって言いにきたんです」
ああ懐かしいですね、義勇さんは懐かしくないですか? とあの頃たしかに子どもだったはずの彼はさらに身を寄せて二の腕に触れる。
「忘れはしないだろうな」
「俺もです! あの、それで、もちろん、義勇さんには柱の皆さんとか、あなたを尊敬してる隊士とか……もちろん鱗滝さんも、もちろんそうなんですけど」
「ああ」
「……なにより、誰より、俺がいますって、言いにきたんです」
そうか、と告げる。すっきりしたように息を吐く少年の気配をもう肩で聴くことができる。
「いま、義勇さんに同じことを言いたくなった。それで思い出しました」
「そうか」
「さみしくなったら、いつでも教えてください。厠にだって湯浴みにだって何日でもついて回って義勇さんに知ってもらいます」
夕陽の最後の光がとうとう溶けかけている。何をとは聞けなかったし、それはもういいとも言いそびれて、それでもふたりにはそれで十分だった。
わかっているつもりだと弟弟子に手渡した答えと同時に、微笑は自然に浮かんでいたのだろうか。炭治郎は自分の表情を目一杯受け取ったのち、なぜか涙を瞳の上でめいっぱい膨らませて、しかしその矜恃に従って落とすことなく口元をゆがめるようにして不器用に笑んだ。
「あ! 魚が焦げてしまったかも」
「別に構わない。お前のぶんはまた焼けばいい」
「そんなあ。美味しい魚、食べてほしいです、義勇さんに」
ないない
07
彼女の化粧や表情は、たいていはいつも整っていた。笑顔を伴わずともにじみ出るやわらかで穏やかな空気も、ぶれずに変わらず彼女を包み込んでいた。
「別れましょう」
だからたんと告げられたその言葉に耳を疑うどころか、最初はうまく脳が理解を通さなかった。
「別れましょう、義勇くん」
ポケットには婚約指輪の収まったリングケースがたたずんでいた。冬の入り口にいる彼女の誕生日、レストランの予約を3時間後に控えている夕刻のことだ。交際して三年になる、生涯を共にするなら彼女であるだろうと自分自身もすんなりと想像していた。
それらすべてが崩れ去る音は、しかしいやに軽い。
「どこか、カフェにでも入ろっか。ごめんなさい、レストランのキャンセル料は払うから。一緒には行けない」
頬を張られたような心地で彼女に連れられるままとりあえずは十分ほど歩いてカフェに入る。テラス席しか空いてないことにも臆せず彼女は鞄を置いてモバイルオーダーを済ませた。
「義勇くん、プロポーズしようかなって考えててくれたでしょう」
ちょうど今日しようと思っていたのだとはさすがに言えず、黙って首肯する。
「わかりやすいんだから。寝てる間に指のサイズ測ってたのもばればれだったし、ウェディング雑誌も机の上に置きっぱなしだったし、なんとなくいつもぎこちないし、そわそわしてるし……」
「わかっていたのか」
「愛おしかったよ。うれしかった。真摯なひとだな、私も義勇くんと結婚したいなって、思った」
「なら、どうして」
質素なホットコーヒーがふたつ置かれる。コートは脱げない。彼女はマフラーさえほどかない。寒さからの防御を恋人の前でひとつも解かないまま、彼女はそれでもいつもどおり穏やかなまま、それでいてすべてを諦めて、まっすぐに自分を見つめる。
「でも、私はやっぱり、私をいちばんにしてくれるひとと結婚したいの」
真意を掴みかねて、続きを促す。すすったホットコーヒーで舌が痛む。きっと火傷になるのだろう。「竈門くんっていう、もともとあなたの生徒だった子がいたでしょう。あの子とね、一回鉢合わせたことがあったの。あなたの部屋の前で。あれは夏の頃だったから、もちろんだけど卒業したあとのことよ」
「炭治郎からはなにも聞いていない」
「そりゃあそうでしょう、あの子あなたのことが好きなのよ」
「慕われてはいるが……」
「何寝ぼけたこといってるの、あなたもそうよ。なんでただの元生徒があなたの部屋の合鍵を持ってるの」
「飲み代を出す代わりに家のことを手伝いたいからといったのは炭治郎だ。おまえの気に障るならやめさせる」
「そんな言い訳どうして真に受けられるの。ねえこんなこと言いたくないわ、私だって。でも、竈門くんの連絡先をいまここで消して二度と会わないで」
「……おまえがそうしろと言うならそうする」
「そうね。……でもそれじゃ意味ないのよ」
ごめんなさいねと謝った彼女からはとっくに涙が落ちていて、鞄に入っているはずのハンカチが取り出されることはなかった。
「三年付き合ってあなたと結婚した私より、もし私たちの間に子どもが生まれたらその子より、あなたの本当の優先順位のなかであの元生徒がいちばんなのが、耐えられない」
別れましょうともう一度告げて彼女は席を立った。キャンセル料はあとで連絡をくれたら支払いますと最後まで律儀に言い残して、水滴は残さなかったくせに手のつけなかったホットコーヒーはそのままで背中を向けた。
呼び止めることはとうとうできなかった。
***
「どうして別れるなんて、しかもこんなメッセージひとつで。せめてわけを聞かせてくれよ」
彼女の家の前で立ち尽くしている。一人暮らしをしているという彼女の扉は心配になるほど薄く、炭治郎がそう告げればたしかに中にいる彼女には聞こえているはずだった。
「言いたくない、しょうもない。どっか行ってよ。顔も見たくない」
「だからどうして」
「言いたくない! あたしに聞くんじゃなくて義勇さんっていうひとのとこにいってわけを聞いてこれば!?」
「なんで義勇さんの名前がここで……」
大学に入ってからできた彼女は付き合いは浅いとはいえ自分の方も好きになったから付き合った女の子だ。こんな形で一方的に終わってしまうなんてあんまりで、ーーでもたしかに、義勇さんの名前を放られて心臓が別方向に動揺しだしたのも事実だった。
「どうしても上がらせてくれないか。玄関だけでもいいから」
解錠の音が聞こえる。やるせなくなりながらドアを開ける。目も鼻も真っ赤にした彼女が、そこに立っていたから。
「俺が何かしたなら謝るから。理由がわからないまま別れたくないんだ。どうか教えてくれないか」
「今になっても思い当たることがないとか抜かすから別れる。話すことなんかない。出てって」
「心まで読めないよ、俺は」
「読まなくたって普通に考えたらわかることだからそう言ってんの。もういい? 泣きすぎて疲れたし寝たい」
出てってともう一度告げられれば踵を返すほかなく、そこまでの拒絶を向けられたことに傷ついてしまった、その事実になんとなく逃げ込むようにしてひとつの疑念を隠した。
“今晩の予定は空いているか”
“夕飯を一緒にとれるなら十八時にこの駅に”
義勇さんってひとに聞けば。彼女の声が脳内でこだまする。ちょうど彼から届いた店名のリンクが添えられているメッセージのおかげで。
よりにもよってこんな日に。しかし予定はふいになってしまったばかりだ。行けますと返事をして、炭治郎は思っていたより冷えている空気に背中を震わせる。
ないない
彼女の化粧や表情は、たいていはいつも整っていた。笑顔を伴わずともにじみ出るやわらかで穏やかな空気も、ぶれずに変わらず彼女を包み込んでいた。
「別れましょう」
だからたんと告げられたその言葉に耳を疑うどころか、最初はうまく脳が理解を通さなかった。
「別れましょう、義勇くん」
ポケットには婚約指輪の収まったリングケースがたたずんでいた。冬の入り口にいる彼女の誕生日、レストランの予約を3時間後に控えている夕刻のことだ。交際して三年になる、生涯を共にするなら彼女であるだろうと自分自身もすんなりと想像していた。
それらすべてが崩れ去る音は、しかしいやに軽い。
「どこか、カフェにでも入ろっか。ごめんなさい、レストランのキャンセル料は払うから。一緒には行けない」
頬を張られたような心地で彼女に連れられるままとりあえずは十分ほど歩いてカフェに入る。テラス席しか空いてないことにも臆せず彼女は鞄を置いてモバイルオーダーを済ませた。
「義勇くん、プロポーズしようかなって考えててくれたでしょう」
ちょうど今日しようと思っていたのだとはさすがに言えず、黙って首肯する。
「わかりやすいんだから。寝てる間に指のサイズ測ってたのもばればれだったし、ウェディング雑誌も机の上に置きっぱなしだったし、なんとなくいつもぎこちないし、そわそわしてるし……」
「わかっていたのか」
「愛おしかったよ。うれしかった。真摯なひとだな、私も義勇くんと結婚したいなって、思った」
「なら、どうして」
質素なホットコーヒーがふたつ置かれる。コートは脱げない。彼女はマフラーさえほどかない。寒さからの防御を恋人の前でひとつも解かないまま、彼女はそれでもいつもどおり穏やかなまま、それでいてすべてを諦めて、まっすぐに自分を見つめる。
「でも、私はやっぱり、私をいちばんにしてくれるひとと結婚したいの」
真意を掴みかねて、続きを促す。すすったホットコーヒーで舌が痛む。きっと火傷になるのだろう。「竈門くんっていう、もともとあなたの生徒だった子がいたでしょう。あの子とね、一回鉢合わせたことがあったの。あなたの部屋の前で。あれは夏の頃だったから、もちろんだけど卒業したあとのことよ」
「炭治郎からはなにも聞いていない」
「そりゃあそうでしょう、あの子あなたのことが好きなのよ」
「慕われてはいるが……」
「何寝ぼけたこといってるの、あなたもそうよ。なんでただの元生徒があなたの部屋の合鍵を持ってるの」
「飲み代を出す代わりに家のことを手伝いたいからといったのは炭治郎だ。おまえの気に障るならやめさせる」
「そんな言い訳どうして真に受けられるの。ねえこんなこと言いたくないわ、私だって。でも、竈門くんの連絡先をいまここで消して二度と会わないで」
「……おまえがそうしろと言うならそうする」
「そうね。……でもそれじゃ意味ないのよ」
ごめんなさいねと謝った彼女からはとっくに涙が落ちていて、鞄に入っているはずのハンカチが取り出されることはなかった。
「三年付き合ってあなたと結婚した私より、もし私たちの間に子どもが生まれたらその子より、あなたの本当の優先順位のなかであの元生徒がいちばんなのが、耐えられない」
別れましょうともう一度告げて彼女は席を立った。キャンセル料はあとで連絡をくれたら支払いますと最後まで律儀に言い残して、水滴は残さなかったくせに手のつけなかったホットコーヒーはそのままで背中を向けた。
呼び止めることはとうとうできなかった。
***
「どうして別れるなんて、しかもこんなメッセージひとつで。せめてわけを聞かせてくれよ」
彼女の家の前で立ち尽くしている。一人暮らしをしているという彼女の扉は心配になるほど薄く、炭治郎がそう告げればたしかに中にいる彼女には聞こえているはずだった。
「言いたくない、しょうもない。どっか行ってよ。顔も見たくない」
「だからどうして」
「言いたくない! あたしに聞くんじゃなくて義勇さんっていうひとのとこにいってわけを聞いてこれば!?」
「なんで義勇さんの名前がここで……」
大学に入ってからできた彼女は付き合いは浅いとはいえ自分の方も好きになったから付き合った女の子だ。こんな形で一方的に終わってしまうなんてあんまりで、ーーでもたしかに、義勇さんの名前を放られて心臓が別方向に動揺しだしたのも事実だった。
「どうしても上がらせてくれないか。玄関だけでもいいから」
解錠の音が聞こえる。やるせなくなりながらドアを開ける。目も鼻も真っ赤にした彼女が、そこに立っていたから。
「俺が何かしたなら謝るから。理由がわからないまま別れたくないんだ。どうか教えてくれないか」
「今になっても思い当たることがないとか抜かすから別れる。話すことなんかない。出てって」
「心まで読めないよ、俺は」
「読まなくたって普通に考えたらわかることだからそう言ってんの。もういい? 泣きすぎて疲れたし寝たい」
出てってともう一度告げられれば踵を返すほかなく、そこまでの拒絶を向けられたことに傷ついてしまった、その事実になんとなく逃げ込むようにしてひとつの疑念を隠した。
“今晩の予定は空いているか”
“夕飯を一緒にとれるなら十八時にこの駅に”
義勇さんってひとに聞けば。彼女の声が脳内でこだまする。ちょうど彼から届いた店名のリンクが添えられているメッセージのおかげで。
よりにもよってこんな日に。しかし予定はふいになってしまったばかりだ。行けますと返事をして、炭治郎は思っていたより冷えている空気に背中を震わせる。
ないない
05 / 🌊・🦋・🎴
03 / たんぎゆ / 最終決戦後
01 / たんぎゆ / R18
骨を砕かれてしまいそうだ。
一回目のときとさして変わらぬ様相で、義勇さんによる健在な握力によって愛撫を阻止されている。なので仕方なく口付けだけを彼に、彼自身が是としたので謹んで組み敷いて跨っているその身体のその唇に、口付けだけを落とす。
「義勇さん。こうされては貴方の身体に触れられませんし、自分の体重を支えられないので義勇さんも重いでしょう」
「……及ばなかった」
「いいえ、両の腕があれば問題なかったのですが」
「それは俺も同じだ」
解放された手のひらには痺れが残っていて、それすらも愛おしいのは半裸の彼を前にして脳が茹だっているからだった。情けない、と羞恥のようなものを抱きながら暴いた胸のあわいに唇を寄せる。義勇さんの指が俺の頭に乗って、髪の間を掻き分ける。心拍が上がる。これからはじまることをふたりして手で触れて確認するような時間に。
片腕ではやはり具合が悪く、早々に彼の隣に寝転がり抱きすくめながら彼の肌を舌で掬う。熱を持っているが俺よりも体温は低く、その温度差が絶妙に心地いい。義勇さんの腕が俺を抱いている。やはり、少々強すぎる力で。
「まだ、こわい、ですか」
おそらく背中についてしまっている痕を感じながら、布団の中で義勇さんを見上げる。
「怖い、とは」
「すみません。熱の中で、怯えた匂いがするんです。以前もそうでした」
「心当たりがない」
せがまれて口吸いをすると邪な洪水に押し流されてしまいそうになる。
「義勇さん。すこし話をしましょう」
「このままか?」
怪訝な表情は当然のものだった。しかしうっかり笑ってしまいながら彼の肩まで布団を掛ける。脇腹に腕を回して、湿った皮膚に犬のように鼻を押しつける。しかし犬のようにおびえられることはない。くすぐったい、と押しのけられるから素直に力に従うと微睡みのようにとろついていて熱っぽい口づけが降ってくる。このひとにはこういうところがある。
「無意識にでも怖いと感じていることを義勇さんに強いるなんて俺はしたくないから」
「……炭治郎」
「はい、義勇さん」
「以前こうしたときときより一段も二段も、逞しく……」
「好きなひとを抱かせていただいているのです。背くらい伸びてしまいます」
なんてことはない。蓋を開ければ背伸びと見透かされていることを恥じながら、ほてった頬さえこのひとに愛おしいと伝える手段に、今はもうなる。
「背の話ではない、心の話だ」
「どちらにしても、はやく追いつかせてください」
「背は抜かされそうな勢いだな。お前の父は長身だったか」
「並だったかと思いますが……義勇さんと同じくらい、かなあ」
頭をずっと撫でられている。胸板に頬をくっつけるだけでは当然足りなくなって、口づけをせがむ。応えてくれないから勝手に奪う。義勇さんはおもしろそうに笑っている。幸福、そうだ。俺にこうされて、本当にうれしそうな感情を滲ませている。俺にもその匂いをうつそううつそうとしているかのように、ふたつの身体をくっつけて。言うまでもない。それは俺にとっても至上の幸福だ。
格好のせいだろうか。邪で、勝手な妄想のようにも思えそうになってしまう。だからせめてあなたの幸福の種でありたいと心から願う。なんでもすると、森羅万象にそう誓う。
「お前を愛している人間は皆、お前が幸福になるべき人間であることを知っている」
まさか思考を読み透かされたのかと疑う。義勇さんは俺の怪訝な表情に構うことなく語を続けた。
「俺も同じだ。炭治郎の幸福を誰にも邪魔はさせない」
「……義勇さん」
「でも、俺の存在が、枷になることがあるなら」
「そんなこと、あるわけない」
「黙って聞け。俺は、おそらく先の短い身だ」
「俺も一緒です」
「お前よりもだ」
彼の匂いを直に吸う鼻がひんやり冷えてくる。よく知っている。この人の優しさはこういう温度をしている。わかっていても、口を封じられてなければ取り乱して否定してしまう。今は、まだ。
「沢山の人間に慕われているお前だ。家族にも、友人にも、仲間にも恵まれている。皆、お前のことを愛しているのだ。行き着く先の末がすでに見えきっている相手と、わざわざ寄り合うなんて承知したくないだろう、誰も悲しむお前の顔を見たくない」
「……」
「無論、俺もだ」
雪の溶ける季節が訪れて、ずいぶん義勇さんとも言葉を交わす機会が増えた。それでも、あなたは自分が正しいと信じていることを言うときは随分流暢になる癖が直っていない。凜として彼が信じている論理だと理解してしまうからねじ切れそうに心臓が苦しくなる。
俺のことが好きだとささやくのはあんなにためらって、つっかえるくせして。それもあなたの本音であるくせに。
「それでも一度は受け入れてくださいました。覆すんですか」
「考えが変わることは、誰でも起こりうる」
「違います、……駄々をこねました。きちんと話してくれてるのにごめんなさい。ねえ、義勇さん」
目の前の鎖骨に口をつける。ほかの誰かに諭されたってこれが自分の幸福だからと笑い飛ばしてしまうだろう。すまないと謝るほかないだろう。
それでも、ほかでもない義勇さんに諭されるなら話はやっぱり別だろう。──混乱している。混乱ぐらいする。本当に愛しているとは、そういうことなのだ。
「あなたが見たくないと言ったって、俺はすでにあなたで悲しくなる。嬉しくなる。切なくなる。愛しくなる。それらすべてが、俺にとっての幸福です」
この息があなたをあたためる日が来るだろうか。怯えていたのはそのせいだろうか。俺を苦しめるかもしれないと、そんなことを案じて。
そんなのはもうとっくに、そうなのに。
「義勇さん。本当に俺を嫌いになったならもう二度と顔は見せません。そんなことになったって俺は、死ぬまであなたを好きでい続けるだろうけど」
「炭治郎、もう」
「義勇さんもそうなら、せめて、隣にいてくれと言ってください」
わかったからもう泣くなと、素肌にぬぐわれてようやく素直に背中を震わせる。しゃくり上げる声があんまり幼くて治めようとして余計にとらわれる。呼吸の仕方もおぼろで情けない。せっかく逞しくなったと認めてもらえたばかりなのに。
「悪かった。……お前に伝えたいことは、本当は沢山ある……」
「俺もです。でも、うまく言えないな、もう」
あなたはそもそも俺を離す気がないでしょう。うろたえたように背中を撫でつづける手のひらが本当は俺に、ずっといてくれというぬくい情を伝えていることに、気付かないんだからのんきなひとだ。愛おしいから刺さるように感じ取れて、しかし愛おしいから直感すべてが疑わしい。だからせめて、あなたの口からはあなたの気持ちしか聞きたくないというのに。
「赤子に抱かれるのは不本意ですか」
「そんなふうには見ていないし、見えない」
「大好きです……泣き止んだらどうか抱かせてください」
「……ああ」
今宵このひとと身体をつなぐ手段があって良かったと心の底からそう思う。絡み合って溶け合って、そのままふたつに戻れなくなってしまったらいいと、願ってしまったって俺たちは俺たちとしてしか交われないけれど、それがほかでもない救いだ。俺が望んだことそのものだった。
ないない
ないない